弘長寺

桜が満開です

久しぶりのブログです。こちらは今、桜が満開です。朝晩はまだ少し寒いですけど、日中は大分暖かくなりました。やっと桜が咲き始め今がちょうど見頃かも知れません。今日は、夜の8時頃、妻と2匹のワンコと銭渕公園というところへ桜を見に行きました。ライトアップされていて、すご~くきれいでした。少し寒かったんですが、たくさん人が出ていましたね。あともう少し、桜を楽しみながら散歩をしています。・・・ Byおっさま
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お寺から近くにある“銭渕公園”の夜桜です

4月は『頬に風を感じてみる』です

4月の「こころのことば」は『頬に風を感じてみる』(萩原清虚作)です。自分なりに解釈をすると “風を感じて生きることは、自然に生きていくことが大切だと思います。あれもしようこれもしよう、ではなく向かってくることに自然に対処していこう。” というように思います。いいことばですね。・・・By おっさま

今日は雪が降りました

久しぶりの“つぶやき”です。今日、朝起きたら雪が降っていました。昨日までは、春のお彼岸であり「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があるように、いよいよ春かな?という時に雪が舞い降りてきました。東京では桜の開花予報のニュースが出る中、こちらではまた冬の到来?という感じでした。こちらは3月に入り雪も徐々に消え始め、全体的には例年よりも少なめな降雪ではなかったかと思います。皆さんもこれから春に向かい、花々もきれいに咲く季節です。心機一転新たな気持ちで、新年度を迎えましょう。・・・By おっさま
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今日の朝の弘長寺です。

3月は『願いを持つだけで 生きる元気が湧いてくる』です

3月の「こころのことば」は『願いを持つだけで 生きる元気が湧いてくる』(萩原清虚作)です。自分なりに解釈をすると “人は夢を持ち、それを目標として願いを持ちます。その願いを持つことは夢を追いかけていくことなので、願いを持つことは生きていくかてになるのではないかと思います。” というように思います。いいことばですね。・・・By おっさま

2月は『やれることから始めよう』です

2月の「こころのことば」は『やれることから始めよう』(萩原清虚作)です。自分なりに解釈をすると “あれもやり、これもやり、などと色々なところに手を出すと、どれもうまくいかなくなりがちです。我々は目の前にある、できることからコツコツ始めましょう。この積み重ねが成功につながると思います。” というように思います。いいことばですね。・・・By おっさま

どうして亡くなった歳を「数え歳」で表すのか

 この地域では、亡くなった方の歳は満年齢ではなく「数え歳」で表します。「数え歳」とは、生まれた時が1歳で、正月(1月1日)を迎える毎に1つずつ加える、日本古来から伝わる年齢の数え方です。お母さんのお腹の中に生が宿る(生まれる十ヶ月前)期間を1歳と数え、生まれた時には、すでに1歳となっているのです。それは「命」というものを、とても大切にしている考え方なのです。そして、お正月には、年神様(としがみさま)から皆が1つ歳を頂きます。それは、皆の誕生日のようなものですから、1月1日に「おめでとう」と挨拶をします(1月1日は、1つ歳をとる誕生日だから「おめでとう」と挨拶する)。よくこの地域では、「12月31日の晩に“歳取り魚”を食べる。」とか「1月1日(正月)になると“1っぽ歳を取った”」などと年配の方は言います。それが、この年神様から1つ歳を頂いた表れです。ですから、弘長寺では亡くなった人に「行年〇〇歳」(〇〇歳は数え歳)と授ける時、“1月1日(正月)誕生日と見なし、年神様から歳を1歳頂く”考え方で、亡くなった日までに、誕生日迎えている方は、「満年齢+1歳」となり、「亡くなった日までに、誕生日迎えていない方は、「満年齢+2歳」としています。(お母さんのお腹で生を授かった歳と毎年1月1日に歳を頂いた考え方です)・・・By おっさま

雪掘が終わりました

25日から業者さんが本堂と庫裡の雪掘りに来てくれました。まわりの家々も雪掘りがピークでなかなか順番待ちで、やっと来てくれました。6人で本堂と庫裡の雪掘りをして頂き、やっと頭の上(屋根の雪)が軽くなりました。ですが、お寺は1回の雪掘り費用も20万円ちかく掛かります。こちらの地域は雪が多いため、どの家も屋根の雪掘りや家のまわり、駐車場の除雪費用は一冬でかなりの高額な出費になります。ですが、雪が降ってもらわないとスキー場関係者などが大変になります。ですから、お互い妥協しうる、ちょうどいい雪が降ってもらいたいですね。もうそろそろ雪もいいかな。・・・By おっさま
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今日は、久々の晴れです。雪掘りが終わった弘長寺です。雪掘りの出費も大変です!!

大雪です

また、寒波が来ました。今日は朝から大雪です。本堂の屋根と庫裡の屋根もかなりの量で雪が積もっています。境内の道は、いつ檀家の方が来られてもいいように、毎朝5時から除雪作業を行い、それと消雪パイプの水できれいにしています。もうそろそろ、雪が小やみになってほしいです。毎日が除雪で疲れました。・・・By おっさま
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冬の弘長寺です。

亡くなった歳、「享年」と「行年」の違い

亡くなった人の歳に「享年〇〇歳」や「行年〇〇歳」と使われます。どうして「享年」とか「行年」とか違うのか。「享年」とは、“天から享(う)けた年数。何年生きたか。”という意味で、「行年」とは、“この世に生まれて修行した年数。この世を生き抜いた年数。何歳まで生きたか。”という意味です。どちらを使うかは、宗派、代々の寺院の付け方、寺院の住職の考え方などで違います。弘長寺では、代々と「行年〇〇歳」と付けます。この世を生きることは、苦がありそれは修行であります。この現世を一生懸命生き抜いたという意味を込めて「行年」を使っています。・・・By おっさま

亡くなったこと、「成仏」と「往生」の違い

亡くなった事を「成仏」とか「往生」と言います。その違いについて。「成仏」とは、煩悩がなくなって悟りを開いた状態をいいます。それは、この世において修行を積み、この世に未練もなく亡くなって自分が仏になることを言います。ですから「成仏」は“仏に成る”と書きます。「往生」とは、この世から仏の浄土に生まれる変わることを言います。浄土の世界には阿弥陀佛様がおられ、極楽浄土に往(い)って阿弥陀佛様のお元で生まれ変わるのです。ですから「往生」は、“生まれ変わって往く”と書きます。弘長寺では、「往生」を使います。人はいつか必ず阿弥陀佛様のお元に往きます。そして、人は亡くなったのではなく、その人の思い出は縁のある方々の心の中にずっと生き続けているはずです。それは、ある意味亡くなったのではなく、ひとまず先に“生まれ変わって往ったんだ”という考え方です。そしていつかまた浄土の世界で会うことができるのです。それは“供会一処(くえいっしょ)”[阿弥陀経の一部]なのです。・・・By おっさま