弘長寺

宗旨について

 弘長寺の宗旨は時宗(じしゅう)という宗派です。時宗は鎌倉時代末期に開宗した浄土教の一宗派であり、開祖は一遍(いっぺん)です。
当初は、中国浄土教の僧である善道大師の著「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」より
“時衆(じしゅう)”と呼ばれました。それは一日を六時間に分けて不断念仏を行い、その要員を“時衆”と呼んだのでした。
現在の“時宗”と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入ってからであります。
よって、江戸時代以前は“時衆”と呼び、江戸時代以後は“時宗”と呼ぶのです。

ご本尊

 ご本尊は阿弥陀仏さまであります。ですから「南無阿弥陀仏」と称えます。
「南無阿弥陀仏」は“南無”(“南無”はサンスクリット語で“namo”(ナーモ)の音写で「帰依する」と訳します)という語と“阿弥陀仏”という語を合わせた言葉です。
「南無阿弥陀仏」を口に称えて仏と一体になり、阿弥陀仏さまのはかり知れない智慧と限りない命をこの身に頂き、安らかで喜びに満ちた毎日を送り往生できるというのです。

教え

 

阿弥陀仏さまへの信・不信は問わず、「南無阿弥陀仏」を称えれば必ず往生できると説いた教えであります。
また、たとえ他の宗教や宗派を信仰していようと、全ての人は阿弥陀仏の誓いにより、生まれ変われるとした教えでもあります。

時宗独自の三大行儀として

1)遊  行・・・
僧が各地を巡り歩き、教えを広めたり修行を行うこと。
2)賦  算・・・
上人が「南無阿弥陀佛決定往生六十万人」と記した紙札を配ること。
3)踊り念仏・・・
鉦(かね)などを打ち鳴らし、踊りながら念仏や経を唱えること。
(時宗では、僧が遊行に用いるようになり全国に広まっていきました)

         があげられます。

開祖

 開祖は一遍(いっぺん)であり、鎌倉中期の僧侶であります。(時宗では宗祖という)1239年(延応元年)に、伊予国(愛媛県)の豪族、河野通広の第2子として生まれました。幼名は松寿丸と言いました。10歳の時、母の死により父の勧めで天台宗に出家しました。その時の法名は随縁と言いました。
 13歳の時に、浄土宗の開祖である法然の孫弟子に当たる、聖達(法然-証空-聖達)の弟子となって浄土宗西山義の教えを学びました。この時の法名は智真と言いました。
 その後一遍は、浄土宗の流れをくむ時衆(江戸時代以降を時宗)を開きました。浄土宗の開祖であります法然と一遍の師弟関係は、一遍から法然の関係をあらわすと、本人と曾祖父の位置関係にあります。(一般社会での続柄関係であらわすと)
 そして全国を遊行の旅に出かけ、1289年(正応二年)8月10日に、自分の教えは自分一代限りであるとし、経文などをみな焼き捨て、8月23日、現在の兵庫県にて五十一歳で往生されました。

一遍の考え

一遍は、生前数々の語録を残し自分の考えをあらわしています。
私が特に印象に残った語録を一部紹介しますと

  1. 「法華経(南無妙法蓮華経)と名号(南無阿弥陀佛)の教えは一つである。法華経の教えはかたちをもった教えであり、名号は心の教えとして説いている。かたちと心は不二であるので、法華経(南無妙法蓮華経)の教えは名号(南無阿弥陀佛)の教えと説かれ方は同じなのである。」
    ・・・一遍は、大局的に宗教の教えは、かたちは違えどもすべて一つであるという考え方です。
  2. 「わが門弟においては、葬儀をきちんと行ってはならない。自分の死体は、野に捨てて獣に施しなさい。ただ在家の人たちが仏縁を結びたいならば任せます。」と遺言をされました。
    そして亡くなる数日前に、持っていた経本などをみな焼き捨て、自分の教えは自分一代限りであると、8月23日の朝、五十一歳の生涯を終えられました。
    ・・・自分の身は犠牲にする、“捨て聖(すてひじり)”としての考え方を兼ね備えたお方であったと伺えます。

寺院数

時宗では一定の修業が終わると、その時の上人(しょうにん)様(法主)より、一遍の教えを受け継ぐ者として、宗祖伝来の「血脈(けちみゃく)」などを相承(そうじょう)されます。ですから時宗の僧侶はあらかじめ「血脈」を相承されているので、一遍や歴代上人様(法主)とは仏縁を結んでいます。よって時宗の僧侶は一遍の教えを継承していくのです。
 檀徒については、ほとんどが修業を行っていないので「血脈」を相承されていません。よって、「血脈」を授けられていない檀徒は、葬儀の時に菩提寺の住職から「血脈」を相承されます。そしてここで住職と故人とが仏縁を結ぶこととなり、それはさかのぼって一遍とも仏縁を結ぶこととなるのです。そして菩提寺住職の導きにより故人は「血脈」を頂いて、浄土の世界へと旅立つのです。
 この「血脈」は、菩提寺の住職と故人との仏縁を結ぶ大切な証(あかし)なのです。

寺院数

 時宗の寺院は、江戸時代より変遷を繰り返し、近世では昭和18年(1943年)に“時宗一向派”の寺院が時宗から離脱し浄土宗へ帰属するようになり、昭和27年(1952年)には、当時末寺20、塔頭20も抱えた準本山級の寺院が本山との意見の相違から本山から離脱し単立寺院となり、現在では全国で400余数寺院となりました。また兼務や代務をされている無住(住職がいない)の寺院も多く、現在、有住(住職がいる)の寺院は300余の寺院数になっています。これは仏教宗派の中でも寺院数が少ない部類の宗派であります。
 新潟県内には時宗寺院は21寺院ありますが、現在、有住寺院(住職がいる)は12寺院になっています。
(平成29年4月1日現在)
 弘長寺の位置する南魚沼市・郡では、時宗の寺院は弘長寺1寺院しかなく、大変めずらしく感じられる宗派です。この地域は山間部であり、曹洞宗や真言宗の寺院が大変多い地域であります。よって時宗の寺院は大変めずらしく思われ、初めて聞く人もたくさんいます。
 また住職の呼び名をとってもこの地域では、“方丈(ほうじょう)さま”や“おっさま(和尚の略)”注記)などと呼ぶ人が多く、この呼び名は禅宗寺院(曹洞宗や臨済宗)の呼び名であります。このことからも禅宗寺院が大変多い地域である事が伺われます。

注記)「方丈」と呼ぶ宗派

・禅宗寺院の住職の呼び名
・・・曹洞宗、臨済宗などの住職の呼び名

注記)「和尚」の呼び方

・曹洞宗、臨済宗、浄土宗など
・・・おしょう
・時宗、天台宗、華厳宗など
・・・かしょう
・真言宗、法相宗など
・・・わじょう
・浄土真宗
・・・和尚という呼び名はありません
・日蓮宗
・・・和尚という呼び名はありません