弘長寺

弘長寺について

 弘長寺は、元々は天台宗延暦寺の末寺であり、弘長元年(1261年頃)、六日町大柳の地に金城山弘長庵として開山しました。そして、正応2年(1289年)5月(鎌倉時代後期)に時宗二祖真教上人とその弟子長真がこの地に足を止めて、天台宗の寺院から時宗の寺院へと改宗しました。この年を時宗寺院として弘長寺の開基と致します。
慶長3年(1598年)、上杉景勝[長尾顕景・上田庄(現南魚沼市)生まれ]は、豊臣秀吉から陸奥国会津(福島県会津若松市)へ120万石の移封の命が下りました。これに際し、越後上田弘長庵・其阿信隨が会津へ弘長庵を移寺(弘長庵の本尊分け)しました。(福島県会津若松市川原町5-20)
本寺である弘長庵は大柳の地にあったが、何時の頃か川流れにより、大旦那である遠藤傳左右エ門氏が施主となって現在の地に移しました。この時に、“弘長庵”から“弘長寺”へ名称を変更をしました。その時分から、遠藤家は代々と檀徒総代を務めています。
弘長寺は、1289年・鎌倉後期に時宗寺院として開基して以来、弘長寺初世(開基)・他阿真教大和尚(時宗二祖)、二世・但阿長真和尚、・・・三十六世・其阿上人了海老和尚、三十七世・其阿上人心立老和尚、三十八世・全阿孝敏和尚と現住職で三十八世代を数えます。
時宗の寺院は、この地域、南魚沼市・郡(約90寺院)の中でも弘長寺の1寺院しかなく、大変めずらしい宗派です。
また南魚沼市と近隣の市をみても各市にも1寺院しかなく、この地域では大変めずらしい宗派なのです。

写真

  • 夏の弘長寺

    夏の弘長寺

  • 冬の弘長寺

    夏の弘長寺

場所

 新潟県南魚沼市六日町に位置し、六日町の中でも中心部に位置しています。この地区は、上越新幹線や関越自動車道が通っており、関東方面からは交通の便が大変よい所です。また道路もよく整備されていて、田んぼの沿線にもアスファルト舗装がされています。そして主要道路には、道路の中央に消雪パイプが設置されていて、冬期間の間、くみあげた井戸水で道路を散水して、雪を融かし、冬でもアスファルト舗装の上を車で走ることができます。
この寺のまわりを見渡しますと、この地域には寺町というのはありませんが、南魚沼市でもめずらしく4寺院がかたまっています。弘長寺を挟み両脇に寺院があり、道を挟んだ前にも寺院があります。それぞれが別宗派の4寺院が集まっている所です。(弘長寺より上隣-浄土真宗寺院、下隣-浄土宗寺院、前-天台寺門宗寺院)

この地域

 この南魚沼地域は群馬県境にあり、まわりを苗場山、金城山、八海山などの名峰に囲まれた盆地であります。夏場は大変暑く、そして冬場は大変雪の多い地域です。特に降雪に関しては、新潟県内でも有数の豪雪地域に数えられ、毎年冬期間の除雪に苦労をしています。
現在では、以前と比べれば除雪事情は大変よくなりましたが、まだ豪雪による除雪作業の大変さは、雪の降らない地域から見れば想像を超えるものと思います。
この地域の名産は、魚沼産コシヒカリ、清酒などがおいしく全国に知れ渡っています。
また、まわりを山々に囲まれた場所で自然も多く、雪どけ水の恵みから春の山菜や秋のキノコ、川魚も大変おいしくいただける地域です。
つい最近では、平成21年に放送されたNHK大河ドラマ“天地人”の主人公で“「愛」の兜の直江兼続”が生まれた場所として脚光をあびました。

本堂

 弘長寺は享保3年(1718年)に本堂が火災に遭いました。そして、明和元年(1764年)に弘長寺二十六世・覺阿憲應和尚が現本堂を再建致しました。弘長寺の古文書によると、「現今ノ本堂ハ坂戸龍言寺ノ古本堂ナリト而シテ龍言寺ハ米沢市に轉地セリ」とあります。弘長寺の現本堂は、上杉景勝(長尾顕景)の実家長尾家の菩提寺である“龍言寺を移築”したものであります。
この龍言寺は、明和5年(1496年)雲洞庵八世が末寺として上田(坂戸地区)に開山した寺院です。この龍言寺は曹洞宗寺院であり、上杉景勝(長尾顕景)の実家で坂戸城主であった実父、長尾政景公の菩提寺であります。後に、上杉景勝は関ヶ原の戦いの敗戦に伴い、慶長6年(1601年)に徳川家康より出羽国米沢(山形県米沢市)へ30万石の移封の命が下りました。国替えに際し龍言寺も移寺(米沢市へ転地)し、景勝の母、仙桃院(上杉謙信の姉)が夫・長尾政景、義父・長尾房長の位牌を米沢龍言寺へ移しました。(山形県米沢市西大通1-6-6)
よって、上田龍言寺は廃寺となりました。
長尾家家督は早世した長男義景に代わり、次男顕景(のちの上杉景勝)が継いだが上杉謙信の養子になったため、その後、上田長尾家自体は、山内上杉家と統合された格好で事実上断絶いたしました。
[後に上田龍言寺(坂戸)の跡地に建てられたのが“ホテル龍言”です。「温泉御宿 龍言」の本館の玄関とロビーにあたる「幽鳥の間」は、弘長寺の元檀徒総代で、豪農庄屋「松崎家」(旧塩沢町吉里)の民家を昭和44年(1969年)に移築したものです。(松崎家は現在、東京都へ移転)
その建物は、平成30年(2018年)に、国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。]
尚、令和元年(2019年)10月より「温泉御宿 龍言」は、「ryugon」へ名称が代わりました。

弘長寺と他宗

 現在、南魚沼市・群には約90以上もの寺院があります。そしてこの地域は曹洞宗や真言宗などが大変多い地域であり、時宗寺院は弘長寺1寺院しかありません。
よって弘長寺は、昔から曹洞宗寺院、真言宗寺院などとのお付き合いが大変深く、弘長寺の境内には、曹洞宗寺院3寺院、真言宗寺院3寺院、浄土宗寺院1寺院の壇家のお墓がたくさん安置されています。(境内に他宗寺院のお墓がこれ程多く安置している寺院は、南魚沼地域では大変珍しく、弘長寺では昔から代々と受け継がれてきています)
また弘長寺は、以前は浄土宗寺院とも関係が深く、檀徒の通夜、葬儀及び法要などは、浄土宗寺院と一緒に行って来ました。
弘長寺は代々と住職の考えが、一遍上人の教えに従い、たとえ他の宗教や宗派を信仰していようと、全ての人は阿弥陀仏の誓いにより極楽浄土に生まれ変われるとし、宗教や宗派の違いを問わず、その人の先祖供養を大切に考える教えが、受け継がれてきているものと思われます。